発達障害の悩み

私自身が社会不適合者と生きてきましたが、現在では、結構な人達が悩んでいるのではないでしょうか。

アスペルガーやADHDと言われている、いわゆる「発達障害」ですが、私は「理論と感情」と分離する事で、「課題の分離」が出来ている人達の事を指している「場合」も多々あると感じています。

一般的には、事実認定と感情論を「ごちゃまぜ」にしている人が多数派で、「ごちゃまぜ」なので「オブラートに包む」ことで、あたかもコミュニティが成立していると思っているだけだと思います。

私達は、私達を発達障害だと言っている人達が「ごちゃまぜ」に評価をしている事を理解していますが、彼らは私達が「分離」して話をしている事を理解していないので「発達障害」と呼んでいるだけと感じています。

発達障害だと言っている人達が、更に「ごちゃまぜ」になって区別がついていないのが、単に「いじわる」で相手を攻撃している人や、悪意があって「事実」を歪めて、更に善人であるかの振舞をする人です。後者はサイコパスと言うのかも知れませんが、アスペルガーやADHDとは異なります。

私達から見たら、明らかに(こいつ、悪意があって悪い方向に発言しつつ、かばっているな)等と感じる事でも、現象としては一緒なので、区別がつかないのだと思います。

全く同じ現象であっても、その構造は雲泥の差が有りますが、少数派である事は間違いありません。

以下の例で具体的に解説します。

論理と感情

私は高IQである事を公表していますが、それは私自身が凄いと思って「いない」からです。もちろん駄目という事でもありません。高IQという事自体は、単なる客観的な事実認定であり、高IQという事に対しての感想は人それぞれだという認識です。

これが会話を分かり「難く」している原因だと分かりました。

私の学歴は高卒ですし、どちらかというと感情的に動く人間なので、勉強も出来ずに理論的では無いと判断されることも多いので、論理的である事の証明程度にMensa会員だと伝える事が多いです。

正直「凄いですね」と言われる事の方が多いですが「凄くない」事がリスクです。笑

これは日本における高IQが「天才」というブランディングをされてしまった事の弊害でもあります。高学歴で何の取り柄も無い人達がいるのと一緒で、何の取り柄の無い高IQの人達も多くいる事も事実ですし、その人達がブランディングをしてしまった結果では無いでしょうか。

凄いかどうかは、高IQという特性を活かせているかどうかであり、そして本人や周囲の人がどう思うかという事で、それは人それぞれだと思います。

高IQというのは単に事実認定だけであり、解釈により変えてしまう事が「認知の歪み」となります。私は「認知の歪み」が極端に少ない為に、誤解を招く事が多いです。アスペルガーやADHDも、認知の歪みが少ないのだと思います。

非公式ではありますが9割以上のMensa会員が公表していないと思われます。

その背景には、自分が高IQは凄いと思っている人や、自分が高IQに見合っていないと感じているのか、妬まれるのが嫌なのか、自慢していると思われると勝手に思っているのか、高IQという事実認定以外に、感情論は人それぞれです。

しかし、単なる事実を公表しない事の方が、私にとっては気持ち悪い感じがします。

私の場合、逆に言うと、中卒だろうが、院卒であろうが、年配であろうが、小学生であろうが、資産家であろうが、乞食であろうが、ヤクザであろうが、警察であろうが、単に事実認定ですので、凄いとか凄くないという感情を持つ事は少ないですし、態度を変える事もありません。

凄いかどうかは、その人の努力の方が重要ですし、幸せかどうかも人それぞれです。ただ、多くの人たちが、この様な単なる事実を「物差し」にしている事も理解しています。

例えば、100点満点のテストで30点であっても、単なる事実認定だけであり、目標としていた学校に行けなかったので悪い事なのか、勉強が向いていない事が顕在化した事が良かったのか、努力をした結果なら悪いかもしれませんが、努力をしていなければ伸びしろがあるし、それは本人しか分かりませんし、捉え方によって異なります。

ただ多くの人は30点を取った人に対して、可哀そうとか、やれば出来るとか、馬鹿なんだとか、事実認定と一緒に、ネガティブな感情論も混ぜて会話をするので、その事実認定すら避ける傾向にあります。

私が本人に「30点ですよね」と言うと、なぜか周りが「そんな事を本人に言う事ないでしょ?」とか言ってきます。明らかに、私では無く、その心配をしている人が30点を取った人をネガティブに捉えているだけです。

多くの会社の会議も一緒で、事実認定と感情論をごちゃ混ぜにして、最後はエイエイオーとかになってしまいます。

課題の分離

理論と感情論を明確に分ける事が出来る事で、課題の分離も出来るようになります。

物事を議論する場合に「好き・嫌い」とか「やりたい・やりたくない」とかの感情が根底にあって、その感情に寄せて議論を進めようとします。理論には方向性や最適解などがありますが、感情に方向性や最適解などありません。

議論が長くなるもの、合理的理由と感情が交錯しているので長くなるのであって、根拠となる数値や事実認定だけで議論し、合理的理由だけで話が出来れば結論は早いです。

これも「認知の歪み」により課題の分離を難しくしています。

私が良く使う言葉に「合理的では無い意見だけど、面白そうだね!」とか、「素晴らしい意見だけど、それが出来ていない貴方から聞きたくなかった!笑」とかです。

結局は「やりたい事」をやるのが一番効率が良いと思いますし幸せな事だと思います。いくら合理的であっても「やりたくない事」をやるのは、成果につながりませんし苦痛でしかありません。

何もやっていない人が言うと、その意見が合理的な意見であっても、間違った意見だとして議論されることも見受けられます。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という「ことわざ」があるように、人間というのは感情で判断をする生き物であると感じています。

多くの人は、自分の感情的な意見や思い込みに対して、例えば無責任なネットの記事を検索し、自分の意見に近い情報や感情的な情報を、あたかも理論的であるように並べたり、悪質なのは切り取る事で情報の印象を変えて、多数派としての代弁をするような事をします。

そして「課題の分離」の思考は、IQが高い人ほど出来ると思っていましたが、そうでもなさそうです。

中途半端にIQが高く、人生経験が浅く、プライドが高い人が、感情論を優先して事実を歪ませる傾向にあると感じています。そのような人は、混乱を招くだけとなり、とても厄介な存在となります。

重要なのが「素直さ」だと感じています。

ある意味、アスペルガーやADHDの人達は「素直」なのかも知れません。